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『近代日本のキリスト者たち』高橋章編著

《日本に渡来したキリスト教が、どう受け入れられ、拒否されてきたのか、その痕跡を歴史的に考察する。
 正教会のニコライ、日本聖公会の開祖ウィリアムズ、クラークの影響を受けた内村鑑三と新渡戸稲造、教育者・新島襄、大衆伝道者として救世軍で活躍した山室軍平、デカルトとパスカルの哲学で有名な森有正、司法の世界で活躍した田中耕太郎、カトリック作家遠藤周作ら23人を紹介。
 彼らが近代日本の形成とキリスト教に対し、それぞれの時代に何を考えてきたのかを探ることは、今を生きる私たちが諸先輩の意見を再考するチャンスだ。
 エキュメニカルな視点で構成されており、それぞれ関心をもった人物から読んでいける入門書的な役割も果たしている。》 「キリスト教新聞」2006年・3月25日号


『沖縄・雲に魅せられて―虹のアーティストのつぶやき―』喜屋武貞男著

〔喜屋武貞男さん  自身の半生 空と雲に託し〕
《年に四回、沖縄と千葉県を行き来しながら作品制作を続けている造形作家の喜屋武貞男さん。このほど、自身の半生や考えをまとめた「沖縄・雲に魅せられて」(発行・パピルスあい、発売・社会評論社)を出版した。知人の出版関係者に勧められ、「挑戦してみるのも面白い」と筆を執った。
 両親が沖縄市出身で、自身は大阪生まれ。東京芸大を卒業後、東京の中学、千葉の高校で美術教師を務め、定年後に沖縄でアトリエを構えた。沖縄では空と雲を鮮やかな色彩で描いている。本にはそれらの絵画や彫刻、オブジェ作品の写真も収録した。出会った人々も登場する。出来栄えに「この本で一度に僕のことを分かってもらえると思う」と手応えを語った。》「沖縄タイムス〕」2006年2月14日 朝刊13面

[第2の人生、身軽な「渡り鳥」]
《千葉県柏市に住み地元高校でも教壇に立った元美術教師が、自らのルーツや芸術活動の足跡を記した著書を、このほど出版した。七十歳で柏と沖縄を往還し活動するアーティストだ。
 著者は喜屋武貞男さん。県立我孫子高校に十二年、同柏高に十三年勤めた。柏高では美術授業を「改革」。生徒が卒業後も油絵や絵の具を教室に残して室内を占有したり、資源が無駄になっているのは問題と、持ち帰りや残存画材の使用を徹底。学期末の批評会などで生徒の関心も引いたという。
 従来彫刻中心に活動し柏駅商店街や公園などでの作品も手掛けたが、一九九六年の定年退職後は絵がメーン。両親の故郷、沖縄にアトリエを構え、鮮やかな色使いの絵を次々発表している。
 沖縄の空に浮かぶ「雲をながめながら人間、世の中を見、生きざまを考える」という喜屋武さんは明るい。自称「渡り鳥」の身軽さは、団塊の世代の第二の人生のモデルとなるかも。》

「日経新聞2006年1月24日朝刊千葉版」


[沖縄へのこだわり 県2世 喜屋武さん半生を出版]
《県出身二世で大阪出身の喜屋武貞男さん(七〇)=千葉県柏市=がこのほど、半生記『沖縄・雲に魅せられて』(パピルスあい発行)を出版した。
 両親が沖縄市泡瀬出身の喜屋武さんは、東京芸術大卒業後、東京都区立中学校、千葉県立高校で美術教師を務め、一九九六年に定年退職。沖縄の雲に魅せられ、作品を彫刻から絵画に変え、沖縄にアトリエを構えた。現在は年四回ほど南風原町のアトリエで制作を続ける。
 沖縄へのこだわりや美術教師時代の生徒たちとの交流、退職後も生涯現役として取り組む様子を芸術家らしい視点でまとめている。二十一世紀に羽ばたく人たちのヒントになればと喜屋武さん。二十七日に東京都千代田区の霞山会館で出版祝賀会が開かれる。》

「琉球新報2006年1月25日付朝刊(東京)」


『神とともにある生活―キリスト教典礼の内的風景―』石井祥裕著

《第二バチカン公会議によって種々の刷新が行われたが、その中でも顕著なものは「典礼刷新」。具体的には、典礼祭儀が各国語で行われるようになったこと、信者たちの行動的参加、本来の形に立ち返った共同体的な礼拝行為などがある。歴史的な歩みや内容を十分に踏まえながら、著者自身の体験を交えて、典礼をより身近なものにしていく。本書には、典礼が自己のライフスタイルと合致しているものを感じる。》 「家庭の友」(サンパウロ)2006年3月号

《信徒の神学者である著者が、洗礼式、堅信式、ミサなどの典礼の歴史や意味を通して一般信徒向けに「キリスト者となるプロセス」を解説する。第二部では「復活の聖なる三日間」を中心とする教会の典礼暦について、やはり歴史を踏まえながら現代的な意味に言及する。》
「カトリック新聞」〈四旬節にお勧めの本〉

《カトリック教会は大きな変革の動きのなかにあり、1960年代に開かれたバチカン公会議は教会内の体制や意識の刷新を行うことを決定した。
 その一つが「礼拝生活の刷新」で、今までは教会の行為として行われていた典礼〈礼拝のこと〉の儀式を信者に分担させることで、典礼を共同体的祭儀とすることに力が注がれた。これは教会の歴史からすれば、キリスト者の信仰は教会の典礼において集約的に表されるとする本来の教えに回帰することを意味した。本書は、このような運動が生まれてきた背景や意図、典礼暦に記された入信の秘蹟の解説などを行ったもので、キリスト教の典礼の源泉を学ぶうえではまたとない入門書である。》
「出版ニュース」2006年2月上旬号


『生きがいを持てる人生メニュー―ボランティア活動とネットワーク作り』
野口桂子著

[自分以外の幸せに責任]
《本書は、周囲の人々の幸せや社会問題に関心をもちながら、社会と積極的に関わっていくことで人生に生きる価値を見いだした人たちのルポルタージュ集である。
 登場するのは、自分のミッションのために歩き出した12人のボランティアリーダーたち。彼らの生き方をメニューとして紹介し、今、自分が何をやりたいのか分からないという若者に、登場人物と共感することで自ら行動を起こしてほしいと訴える。
 紹介されている人物は、様々な国際協力団体に所属してアフリカやアジアで医療援助活動を行っている写真家。一流企業を辞めて障害者の施設で子どもたちの世話をしている保育士。病気で長期入院する子どもの家族の支援に取り組むNPO主宰者など。
 彼らは有名人でもなければ、特別な才能があるわけではない。志をもてば、誰でも彼らのようになれる。ただ、これらの人たちに共通しているのは、自分以外の幸せに生きがいや責任をもっていることである。
 著者の野口桂子さん(星詐槎大学助教授)は、「メニューからどれかを選んだとしても、レストランのようにご馳走が出てきて、お腹をいっぱいにして終わるものではない。どのメニューを選んでもあなた自身の世界に一つしかない生き方を切り開き、あなた自身がいろいろな人たちとともに彩っていく」ことが大切とメッセージを送る。
 人生は初めから一本道ではない。挫折したり、方向転換しながら自分の道を見つけていく。本書でとりあげられたのは、そのような貴重な経験を経たのちに、幸せの道を歩き始めた人たちである。》

「教育新聞」2005年12月


『三島由紀夫論』上総英郎著

〈この論考は文学論であり、作品論である。三島由紀夫という作家の作品それ自体だけを考究の目的としておく〉〈文学の純粋ジャンルをここで相手にしてみよう。目前のテキストがあればそれでいいのだ〉〈この作家は、文学を芸術として考えるとき、いつも先方においてブリリアントの輝いていた〉三島由紀夫と文学について語り合い、作品を追いかけるように読んできた著者による〈後にひけない試論〉としての三島由紀夫論。
 ここでは、初期作品に始まり、『仮面の告白』『禁色』『愛の渇き』『金閣寺』『鏡子の家』などを中心に、三島独特の宇宙観と美意識、死への欲求、エロスのせめぎあい、俗世への挑戦状、反自然、反日常の美学、羞恥と宿命、作家と仮面、挫折と青春、芸術志向と権力志向といった要素を読み取り、政治的次元や実人生の有様とは無縁の次元で、徹底して作品に向き合い、作家・三島由紀夫の本質を導き出す。

「出版ニュース」2005年11月上旬号


『遠藤周作へのワールド・トリップ』 上総英郎著

〈彼ほどに小説家であることに徹し、彼ほどにキリスト教徒として己が道を通した人は稀であろうとさえ思う〉〈今にして思うのは、遠藤氏が人生を深く愛している人であったことである〉著者は文芸評論家として遠藤文学に出会う。本書は、キリスト教文学の視点から読む遠藤作品の解説を通してその神髄を語り、さらにキリスト教徒としての作家・遠藤周作の魅力を語ったものである。特に、遠藤文学を代表する「沈黙」については、その本質に迫るとともに作品の弱点、急所も明らかにするのだが、その後の著者と遠藤氏との対面の場面が読ませる。さらに遠藤文学に流れる神と信仰の問題を、諸作品に沿って展開。作家への熱い思いあふれる評論集だ。

「出版ニュース」2005年7月上旬号


『頭は一つずつ配給されている』森崎東著

《渥美清の名セリフを冠したエッセイ集。自作の話から世間の動きまで、蠢く思考を綴る。
 16歳のころ、何かに属して楽になりたいと思いながら、結局すべての「収まりきったもの」に敵意を向け、境界線上をふらついていた。そんなとき観た映画が森崎東監督の「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」だった。登場人物たちの居場所のなさと切実さ、はかないようでゆるぎない交わりと愛情。「結末が最悪だとしても、このまま走れ!」と勇気づけられた気がした。
 驚いたことに、森崎監督は近所に住んでいた。縁あって一度会った。ほの暗い廊下の奥から現れたラフな部屋着の監督は、「一度着てしまったものだけど」と言い、「生きてるうちが花なのよ」と書かれたTシャツを手渡してくれた。私は、なんとか「ありがとうございます」と言った。それだけ。そのシャツは私の宝物となったが、毎日のように着たせいで、すぐボロボロになった。
 それから約20年、「生きてる……」の続編とも言える映画「ニワトリはハダシだ」が完成。私もいまだに境界線上をふらついて生きている。胸が締めつけられるような、不思議な喜びが湧いた。
 秋にはロードショー、さらには全作品上映企画もある。期待しつつ、本書で反骨と疑念と愛情とが交じり合う森崎東の美文を愉しもう。》 「週刊スパ」2004年9月14日号

《この本の題名は森崎東の監督第一作「喜劇・女は度胸」(69)の中で渥美清がアドリブでしゃべった言葉だという。
「ほかに何一つ自信がなくても、頭は一つずつ配給されている、というナケナシの自信は、ほかに自信がなければないほど頼もしい実存的な自己認識となる」
 森崎がデビューした69年、松竹では「男はつらいよ」シリーズが始まっている。「なつかしい風来坊」(66)や「吹けば飛ぶよな男だが」(68)など山田洋次監督の初期の傑作の脚本共作者で、「男はつらいよ」の誕生にも関係している森崎だが、その後の二人は作品世界の方向を異にする。
 それぞれの作品の常連、倍賞千恵子と美津子姉妹が象徴するように(実際は山田が年下だが)まるで長男・次男の性格の違いみたいだ。
 たとえば渥美清に「労働者諸君!」と言わせても、森崎の場合は、アナーキーな未組織労働者に対しての連帯エールに向かう。
 社会のあらゆる規範や制度に反撥し、より下降して根源的な自由を求める姿勢は、森崎映画の一貫した魅力であり、この本にも共通する。
 初出一覧によれば、すべて月間「公評」誌に掲載された文章は、代表作「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」が公開された85年から始まっている。
 その長い題名そのものが〈森崎イズム〉だった。
 20年近くたっても森崎イズムは健在。円熟といった言葉を拒絶し、激しさと純粋さを増して、まぶしいほどだ。
 曰く「合理より不合理を!」「知識を増すものは憤激を増す」「連帯を求めずして自立をも恐れず」‥‥。
 森崎イズムの浪漫であり、生き方への檄である。
 特に冒頭の「映画にならなかったイエスの方舟」が、題材へのアプローチの仕方など創作への秘密が具体的にうかがえて面白い。是非とも見たかった。
 個人的に思い出したのは、その企画に関わっていた松竹のプロデューサーSさんのことだ。企画が流れたころ、悔しさをゴールデン街で話してくれた彼は、2年前に54歳の若さでガンで亡くなった。
 本書の中でも、割腹自殺した兄・湊をはじめ、志なかばで亡くなった友人やスタッフへの思いが語られている。
 そうした追悼も胃袋に消化して「死んだらそれまでよ」の森崎イズムは、6年ぶりの新作「ニワトリはハダシだ」の映像で爆発しているはずだ。》 「キネマ旬報2004年10月下旬号」

《著者は、69年「喜劇・女は度胸」で監督デビュー。「男はつらいよ フーテンの寅」「喜劇・女売り出します」「時代屋の女房」「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」など人情喜劇を得意とした。最新作「ニワトリはハダシだ」は、第17回東京国際映画祭のコンペ部門に出品されている。本書は、著者が20年にわたり雑誌に不定期に連載したエッセイをまとめたもの。映画、社会、政治など多岐にわたる内容で、森崎映画ワールドの背景をさぐることができる。》 「シナリオ」2004年11月号

《映画「男はつらいよ」の礎を築いた脚本家であり、一貫して底辺に生きる人間を見つめてきた反骨の映画監督・森崎東が、一九八五年より『公評』誌上に書きためた随筆、論説集である。
 進行中の作品や、頓挫(とんざ)した企画、あるいは時勢を鋭敏に取り上げて思索し、権威を批判し、やがて「何のために映画を作るか」、「生きる第一義は何か」を追求し、帰納していく。
 著者に師事したひとりとしては、「おっちゃんの方舟」や「老人力」など、実現しなかった映画の記述の数々に、まず心躍らされた。諧謔(かいぎゃく)に富んだ筆致と、独特の視点、こだわりに魅せられて、一気に読んだ。
 最愛の兄が第二次大戦敗戦翌日に自殺するという、苛烈(かれつ)な体験を創造の原点とし、少年期に接した大牟田の炭鉱労働、旧制高校から京大学園新聞記者にかけて培った、理想と情熱の記憶を手繰る。著者の論評は、映画のみに留(とど)まらず、政治、宗教、哲学へと連射される。日本社会特有の「いじめ」が、天皇制と通低していると指摘し、利権を生みやすい代議制を否定し、ユニークな直接民主制の必要を提案する。また、原発臨界事故に思いを巡らせては、「『万人が万人にとっての敵である』資本主義社会の中で、自由競争というかま窯に煮られて、『本能(良心)』という乳はひとたまりもなく泡立ち、蒸発した」と絶望する。しかし、別の章では、「絶望」の虚妄を論じ、「絶望しても、遠い残雪のようにある祈りは残るだろう」と希望する。
 絶望までいかなくとも、失望ばかりしている、同じ映画人としては、本書を「福音の書」として座右に置きたい。
 表題は、著者のデビュー作に主演した故渥美清が発した、台本にないセリフである。「てめえの頭で考えろ、人間頭一つずつ配給されてんだ」と毒づいた彼は光輝く自信に溢(v)れていた、という。》(本木克英・映画監督) 「赤旗」2004年11月7日

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●開設 2002年1月31日
 ●最終更新日 2006年 4月18日